その翌日には、ディアナの部屋にコンピュータが運び込まれた。
 が、当初、断固として反対するものがあった。シーラである。曰く、「病人を安静にさせるための部屋に、目や神経に疲労を与えるものを置くなんて、許可できる医師がどこの世界にいますか」と。
 これにはアドミスもエリフォス、勿論その他大勢の男どもには、反論する術がなかった。そこで彼らは、ディアナ本人に直談判をし、説得させた。半分泣き落としというか脅迫すれすれの「話し合い」が行われ、ディアナは「二時間以上の作業はせず、合間には必ず十分以上の休憩をとる」という交換条件の下、許可を分捕った。彼女は、まるっきりの幼い子供扱いに、少なからず憮然とした思いでいたのだが。
 そして今日も、ディアナは約束通り休憩時間に入ろうとしていた。残り一分。
「そろそろ……ね」
 置時計が定時を差し、休憩時間を告げる電子音が鳴った。と、前触れもなく扉が開く。
「ディアナ、調子はどうだ?」
「異常ありません。データはいつも通り、情報課へ送りました」
「俺が言っているのは体の方だ。それと、敬語はやめるように言ったはずだが」
 無造作にテーブルの上へ置かれたのは、小さな花束。今日は淡紅色の花が、水色の紐で束ねられている。花の形を整えながら、花瓶へ活ける。
「……そうね、特に昨日までと変わらないわ。あなたは毎日のように花束を持ってきてくれるし、ここは地下にしては空気もいいのでしょうし、シーラはよくしてくれるし……。不都合なこともない、いい環境だと思うわ」
 アドミスは鼻を鳴らし、勧めたわけでもないのに椅子へ腰掛ける。それは彼が満足したときの癖だと、この十数日で学んでいた。
 忙しいはずなのに、彼はこの時間帯をディアナの部屋で過ごす。このやりとりも、既に日課のようになっていた。シーラが医療課の仕事に行っているこのとき、アドミスに留守を頼んだわけでも、ディアナがそれを望んだわけでもなかったのだが、いつのまにかそれが当たり前になっている。
 持ってくるのは、いつも花束だった。雑貨でもなく、装身具でもない。外の仕事のついでに買ってきたり、今日のようにホール脇の花壇に咲いていたものなどを、選んで摘んできたりする。ディアナはそれらを、押し花にしたり花びらを水に浮かべたりして、飾っておくのだ。おかげで、どんどん賑やかな部屋になってきている。
「お茶は?」
「もらおう」
 一旦キッチンに下がり、アドミス専用の茶葉を持ってくる。紅茶はこの銘柄しか飲まないらしく、機械と一緒にここへ持ち込んだのだ。なんでも、主君から直々に拝領しているらしいのだが……それがどんな立場の、どんな人なのかは知らされていなかった。
「本当は、エリフォスさんの方がお上手なんだけど……」
「いや、君もなかなかのものだ。エリフォスはともかく、殿下が淹れてくださる紅茶と、ほとんど変わらない味がする」
「そうなの? 良かった、嬉しい」
 笑顔を浮かべると、彼も少し口元を上げてくれる。茶葉が充分に開いて沈んでいるかを確認し、軽くポットを揺すって注ぐ。暗紅色の液体が、ほのかな香りを放っている。一口含めば、芳醇な味と香りが口いっぱいに広がった。
「ディアナは本当に何でもできるな。昔からずっと変わらない」
「そうなの?」
「ああ。シーラは優秀だが銃の扱いが今ひとつだし、エリフォスは仕事はできるが忘れっぽい。その点、君は非の打ち所がない。……まぁ、強いて言えば真面目すぎることだろう」
 くす、と笑んで次を促す。こんなに手放しで褒めるなんてと、こそばゆく思う。何か、いいことでもあったのだろうか。
「そんな君と毎日こうして会っていることがバレたら、俺は誰に何度殺されても文句は言えないな」
「……別に、毎日来てくれなくてもいいのよ? あなたは忙しいんだし、私は構わないわ」
「迷惑か?」
「違うけど」
「……なら、いい。俺の勝手だ、気にするな」
 表情がなくなった。機嫌を損ねてしまうなんて、自分らしくない。落ち着かない視線の先で、アドミスは空になったカップを差し出した。受け取る際に、指先が触れる。冷たい。
「永遠を……あなたは信じている?」
 不意に口をついた言葉に、アドミスはおろかディアナも驚いた。自分は何を言っているのだろう? けれど、もう引き返せない。
「……なに?」
「何かがずっと続いたり、存在するというようなことが、あると思う?」
 突然の問いに戸惑ったのか、沈黙が下りた。考えてくれているのだろうか。
「――いいわ、何でもない。気にしないで」
 ポットを引き寄せ、優しく紅茶を注ぎ足す。彼の口が開くと同時に、電子音がディアナを呼んだ。内線だった。小さく断りの言葉を告げ、電話へと走る。
「はい。あ、エリフォスさん? ええ、アドミスですか?」
 視線をやると、難しい顔をして首を振った。居留守を使えと言っているのだろう、と解釈して背を向ける。
「ここでお茶を飲んでいますが」
「おいっ!」
「ええ、私の告げ口に文句をつけています。……はい」
 ディアナはアドミスに受話器を渡し、何故か傍にあった耳栓をした。受け取りながら見ると、彼の目の端がぴくぴくと動いていた。そして予感は当たる。
「仕事サボって何してるんですかっ! さっさと戻ってきてくださいっ!」
 はじめの一言を聞いた瞬間、アドミスは耳からそれを遠ざけたが遅かった。耳栓をしていても聞こえる大音量に、つい表情が緩む。
「……わかった、今そっちに行く。ああ、さすがに今のは響いたぞ」
 観念した様子のアドミスと共に扉へ向かう。今日はさすがに、十分も経っていなかった。
「仕事をサボってまで来なくても」
「俺の勝手だと言っただろう」
「……そうね。でも、エリフォスさんって意外と声大きいのね」
「確かにな。……それじゃ」
 振り返って、名残惜しそうに微笑する彼。
 掛けてやる言葉はひとつだ。
「がんばって」


 情報課の部屋へ向かう途中、エリフォスと出くわした。迎えに来たのだという彼から進行状況を聞きだしたが、特に進展はないらしい。すれ違う部下たちへ柔和な笑顔を返しながら、ようやっと本題を切り出してきた。
「それはそうと、熱心ですよね」
「何がだ」
「惚けないでくださいよ。今日も彼女のところにいたじゃないですか。……まぁ、最初は私も信じられませんでしたけどね。半月前、意識不明で発見された敵国の調査員が、記憶喪失になっていたなんて」
 アドミスは冷笑を浮かべた。いつもの――ディアナが目を覚ますより前、笑みを浮かべるといえばこれしかなかった、冷たい表情。
「あれはシーラの見立てが正しかっただけだろう。俺はそれを信用して行動しただけだ」
 半月前、確かに本部から調査団が派遣された。だが、潜伏先で落石に遭遇し、数名の死傷者を出した。偶然そこに巻き込まれたメリオルの諜報員はかなりの重傷を負い、調査団に同行していた医師に、頭部を強く打っていると――記憶障害は免れないだろうと判断を下された。それが、ディアナだった。
「記憶喪失といっても、何らかのショックによってどこかに記憶が封印されるケースもある。記憶が戻った、というのはそれが解けたということだ。脳科学の研究者のシーラが、患者から複雑数式の記憶を引き出す薬を開発していて、試作段階にあったものを持参していなかったら、助けなかっただろう。――使えるものは最大限使うのが、俺のやり方だ」
「それにしても、司令官には驚かされますよ。シーラさんの提案に、本当に乗ってしまうんですから。恋人役なんて無理だと――失礼、思いましたけど、最近は本物の恋人同士のように見えますし、このところ毎日彼女に会っているじゃないですか。二人きりになれる時間を選んでまで」
 アドミスは、自分にも他人にも仕事で手を抜くことは許さない。今までの彼なら、仕事を放って異性に会いに行くだなんて、天地がひっくり返ってもありえない話だったのだ。
「ただ、警戒心を解かせるためだなんて言わせませんよ。あなたはそこまでする人間じゃない」
「……自分でも、よく判らない。何故ここまで彼女に執着しているのか、わからない……が、傍にいると安心する。それはわかる。一緒にいたいというのがこういうことなのかは、知らん」
 弾かれたように、エリフォスは目を見張った。同じ職場で働くようになってから今までに、見たことのない表情をしている上司がそこにいる。
「――では、彼女が奪い返されないように、守らなければなりませんね」
「ああ」
 何かが駆けていく足音がしたが、エリフォスが何も言わないので気にしないことにした。