わかってるよ。
 わかってるけど、言わない。
「さよなら」なんて、言いたくないよ。



                さよならの代わりに



 雨が降らなくて、心底良かったと思う。
 ただでさえしんみりした雰囲気になってるのに、雨なんか降ったら余計に気分が重くなる。窓から見える桜の木たちも、幾つか蕾をつけたまま、ぼんやり立ち尽くしている。
 校庭では、今頃後輩たちが私たち卒業生を囲んで、花束を渡したり泣きついたりしているんだろう。ひょっとしたら、第二ボタンを貰いにいく子もいるかもしれない。
 わたしはひとり、明日から来られなくなる教室の、自分の机に座っている。エスカレーター式の高校だから、大学にはほとんど同じ顔ぶれが揃っている。寂しくなんて、ない。仲の良い親友も学部は違えど、同じ敷地内の校舎で学ぶことが決まっているのだから、不安もあまり無い。
 じゃあなんで、わたしはこんなところにいるんだろう?
 机からそっと降りて、右斜め前の机に触れる。――使われなくなって随分経つその席は、それまでアイツが使っていた場所だった。
 何の前触れもなく伝えられた、朝のホームルーム。ざわめく教室の中、わたしは呆然とこの席を見つめていた。そうか、もう会えないんだ。そんなことを、ぼんやり考えた気がする。
 明るいというか、寧ろひょうきんとさえ言える言動で、よくクラス中を沸かせていた。わたしはそれを、眺めて笑っていて――それは、ほんの、少しだけ、前のことだ。でももう二度と、わたしの世界はここでのように、彼と重なることは無いのだ。もう、二度と。
 ここから出てしまえば、もうわたしと彼とを繋ぐものはほとんどなくなってしまう。残るのは、「元クラスメイト」とか、「高校の同級生」とか、そんな取るに足らない関係の名残だけ。当たり前だけど、たったそれだけしか残らないのが、どうしようもなく嫌だった。
 わたしのなかで、彼の時間はあのときのまま。「またな」って笑った、オレンジ色に染まった顔のまま。なのにわたしは進まなければいけなくて、大学に進学しなきゃいけない。そのあとは、就職もきっとしなくちゃいけない。――そんなの、嫌なのに。
 あのホームルームから、私は泣いていない。正確に言うと、「彼の不在を想って」泣いていない。泣くのは、何か違う気がしたからなんだけど。
 まだ実感が湧かない、というのもある。現に、今すぐにでも彼がひょっこり顔を出すような気がしてならないのだ。なんでこんなトコにいるんだよー、とでも言いながら。みんな探してたぞ、とか。
 クラスの中心にいるくせに、フットワークがやたら軽くて。遅刻はしないけど足がやたら速くて、チャイムぎりぎりに席に滑り込む、なんてよくある光景だったっけ。
「……ばか。ほんっと、ばか。ばかじゃないの、ほんとにもう……!」
 聞いてくれる相手は、もういないのに。ごめんな、っていう謝罪も、ばかとはなんだー! っていう反論も、もう聞けないのに。わたしは、とにかく呟き続けた。主語を抜いて、傍目には自分に向かって言っているように。
 そうでなければ、何かが壊れてしまうと思ったから。

 だけど、わたしわかってるんだ。
 本当にばかなのは、こうなるまで気付かなかった、わたしの方だって。

「  」

 ポケットから油性ペンを出して、細い方の蓋を開けた。きゅぽっと不釣合いな音を立てたそれを、わたしはゆっくり走らせる。あまり目立たないように、小さく。大っキライなクセ字で、そっと紡ぐ。
 六文字書いて、手を止めた。名前は、書かないことに決めた。
 ペンを鞄に仕舞って、最後に教室全体を見渡す。そしてゆっくり、振り返らずに戸口へ向かって歩いた。
 アイツの席から見たこの教室を、ずっと忘れないでいようと思った。



『すきだったよ』





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